藍染めの布は、エジプト、インドはもちろん、中南米やアフリカでも古くから使われてきました。
日本の特有の文化と思われがちですが、実は、世界の歴史の中で、あらゆる民族の暮らしを彩ってきました。
紀元前3000年頃 | インダス文明の遺跡から、藍染めの染織槽跡を発見 |
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紀元前2500年~ 1200年頃 | エジプトのテーベ古墳からミイラの巻布「マムミー布」を発見 これが世界最古の藍染めの布 |
紀元前1336年~ 1327年 | ツタンカーメンのミイラにも藍染めの布を使用 |
紀元前300年頃 | シルクロードを通じて文明の交流が始まり、藍染めの布製品も盛んに行き来する |
中国漢時代 | 藍染め糸による刺繍、藍染めがほどこされている布類が出土される |
600年頃 | ヨーロッパにおいて、「ウォード」の栽培が始まる |
1600年頃 | ヨーロッパのウォードの栽培が広がり一大産業となるが、インドアイの輸入が始まり、瞬く間に衰える ◎ヨーロッパではウォードを守るためにインドアイの輸入を禁止したことがあったが、 インドアイは、藍色成分の純度が圧倒的に高く容易に染まり生産効率が高いのでウォードはしだいに消滅 |
故事成語の「出藍の誉れ」は、戦国時代の思想家、筍子(じゅんし)(紀元前310 〜230 年)の有名なことばに由来します。この時代、すでに藍染めの技法が完成していたことを証明しています。
青色の染料は藍から取るが、もとの葉よりも青くなる。つまり、教えを受けたものが教えた師よりも優れることもあり、学問がいかに大切であるかを伝えています。
その後、後漢時代に「青出於藍而勝於藍」(藍より出でて藍より青し)と記されて、「出藍」ということばが誕生しました。
「インディゴ」は、青色成分の名前。インド生まれの藍の品種「インドアイ」が、染めの原料として世界中で使われるようになり、「インディゴ」と呼ばれるようになりました。語源は、ギリシア語の「indikon」で、これがラテン語の「indicum」、ポルトガル語を経て、英語の「indigo」になったのです。
日本における藍の歴史は飛鳥〜奈良時代に遡ります。大切な布を美しい藍色に染めたり、
薬草として庶民の暮らしを支えたり、日本人と藍の関係は実に深く大切なものでした。
飛鳥時代~奈良時代 | 奈良時代に中国から朝鮮半島を経て伝来。最初に栽培したのは出雲族で、種類はタデ藍だったといわれる ◎法隆寺や正倉院に布類が多数保存されている。注目したい藍染め作品は、正倉院の「縹地大唐花紋錦(はなだじ おおからはなもんにしき)」。琵琶を入れる袋の残片で、淡い藍色をベースに10 色もの藍を配色。 ◎藍染めによる青色が位色(位に応じて定められた服の色)の中で、天皇の官位12 階6 色のうち第2位とされ、 上層貴族階級の人々は藍染めの絹の衣類を着ていた。 |
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729年~749年 | 出雲族は藍の摺染技法を習得して、播磨へ伝えた(『出雲風土記』より) |
天平時代752 年 | 大仏の開眼供養会で藍染めの絹の紐「開眼の縷」が使用された。日本において現存する最も古い藍染めで、 正倉院に保存されている ◎長さ200m の縹色に染められた紐。開眼に用いた筆に紐の一方を結び、参列者が藍染めの紐に手を添え 開眼を祝った。 |
室町時代 | 戦国時代以前より薬効が広く知られ、貴重な民間薬として使用される |
1247 年 | 「見性寺」を開いた翠桂和尚が、美馬郡岩倉で藍を栽培して衣を染めた (徳島県における最古の資料『見性寺記録』より) |
1445年 | 阿波から兵庫の港に大量の藍葉が荷揚げされた(『兵庫北関入船納帳』より) |
1549年 | 戦国時代まで主流だった、葉藍を水に漬け染め液をつくる沈殿藍の手法が、すくもを作り染める手法に変わる |
安土桃山時代 | 徳島藩で、藩の殖産事業となる。藍の栽培、藍染めが保護奨励される木綿が普及し、 庶民の暮らしに藍染めが深く浸透する |
江戸時代 | 作業着から高級衣装まで、あらゆるものが藍染めになる。また、木綿糸の量産で、生活雑貨へも広がりをみせる 火縄銃に利用された。藍染めの糸で編む縄の先に火を付け、その種火を持ち歩いた。じわじわと細く燃え続ける性質が役に立った |
明治時代 | 藍の紺色が暮らしの基本色となる 国鉄や郵便局の制服に藍染めの布が使用され、大正時代中期まで着用される |
明治後期 | 安価で早く濃く染まるインドアイや、合成染料が登場し、国内生産量が激減 |
昭和初期 | 第二次世界大戦中、藍は栽培禁止の作物になる |
明治初めに来日したイギリス人化学者、ロバート・ウィリアム・アトキンソンが、町のあちことに見られる藍色を「ジャパン・ブルー」と呼んで称賛しました。サッカー日本代表のチームカラーとして定着した「ジャパン・ブルー」のことばのルーツは、明治初めにあったのです。
栽培禁止となった戦時中、徳島の藍師・佐藤平助さんは姪の岩田ツヤ子さんとともに、林の中の目立たない開墾地で人目を避けて、秘かにタデ藍の栽培を続け、藍種を収穫し続けました。 終戦後、藍の栽培をすぐに再開できたのは、佐藤さんたちの藍への深い想いと命がけの努力があったからこそです。佐藤家では、この時に守った「白花小上粉(しろばなこじょうこ)」を作り続けています。